Eine Rückkehr ~帰郷~ (11)
それは突然だった。
身体に力が入らない。
自分の身体がまるで別物になったような、不思議な感覚。
夜中、自分の身に起きた異変に、オリヴィエは声を上げた。
「なんなんだ、これは!」
そして悟った。
来たのだと。
サクリアの尽きるその日が、間近に迫っていると。
寝台の上にようやく身体を起こすと、冷たい額に右手を当てた。
そのまま両目を覆う。
そして哄笑した。
夜の闇に響く、高い大きな声で。
「遠出をしてみよう。
たまには、良いだろう?」
週末の夜、滅多にないほどの上機嫌で、オリヴィエが切り出した。
「急ですわね。」
怪訝な顔で返すロザリアの唇を、指で塞ぐ。
「『行けない』は、だめだよ。
許さない。
どうしても行きたいんだ。
あんたとさ。」
わかったとロザリアが頷いて、ようやくオリヴィエは指を離す。
「どこへ?
どこへまいりますの?」
当然の質問である。
「寒いとこだよ。
ああ、心配ない。
あんたの用意はしてあるからね。
明日早く発つから、そのつもりで。」
それ以上の質問は、受け付けない。
ロザリアの身体を抱いて、いつもどおりオリヴィエは横たわる。
「おやすみ。」 唇に短いキスをひとつ。
すぐに離れた熱が、ほんの少しの違和感を残す。
なにかおかしい。
その夜ロザリアは、そう感じた。
主星のエアポートからシャトルに乗った。
無論身分は隠したお忍びで。
辺境に向かう便らしく、乗客はほとんどいない。
だからいくら身をやつしたとはいえ、すっきりした美貌の青年とそれに似合いのレディの二人連れが、目立たぬわけもない。
乗り合わせた人々は、控えめにではあるが、ちらちらと彼ら二人に好奇の視線を送っていた。
「気にしない、ロザリア。」
雑誌に視線を落としたまま、オリヴィエは言った。
白い絹のシャツ、柔らかな毛織のパンツの足を綺麗に組んで。
フレームレスの眼鏡をかけた横顔は、ロザリアも初めて目にするもので、形の良い高い鼻がすっきり際立っていた。
思わず見蕩れてしまう。
「田舎も田舎、ホントに何もないとこだからね。
観光地でもなんでもないとこさ。
あんたみたいな綺麗な子が、何しに行くんだろうって。
そう思って見てるのさ。」
ロザリアの視線を感じているだろうに、オリヴィエはやはり顔を上げなかった。
「退屈だったら、寝てると良いよ。
三時間くらいかな。
起こしてあげるから。」
それきりオリヴィエは口をつぐんだ。
どうしてそんな何もないところへ?
ロザリアは不審に思ったが、オリヴィエはその質問を歓迎しないように感じた。
乗務員にクッションとブランケットを頼んで、ロザリアは目を閉じる。
朝早かったこともあり、あっけなく睡魔に捕まってそのまま。
どのくらい眠っていたのか。
寒い。
身震いして、目が覚めた。
機内の温度は、かなり下がっているようだ。
「オリヴィエ?」
静か過ぎる。
クッションを外して身体を起こすと、ロザリアはもう一度恋人の名を呼んだ。
「オリヴィエ?」
小さな窓から、彼は外を眺めていた。
何の感情も映さぬ、仮面のように冷たい顔をして。灰色に曇った窓の外、おそらく何も見えはしないだろうに。
「言ったろう?
寒いって。
じきに着くから…ね。」
仮面の横顔に似合いの声は、薄い氷のように脆く冷たかった。
オリヴィエの胸の奥深く、何かが棲んでいるのに、いつとはなくロザリアは気づいていた。
その何かが蠢き出すと、決まって彼はこんな顔をする。
まるで表情のない冷たい顔。
そう滅多にではなかったが、何度かロザリアは目にしていた。
そしてそんな夜、オリヴィエは執拗にロザリアを求めたものだ。
まるで何かを怖れてでもいるように。
けれどその理由を、ロザリアが恋人に尋ねたことはない。
派手な衣装に、人あたりの良い口調。
誰とでも社交的に付き合う彼は、実のところそのうちの誰にも深入りをしなかった。
オリヴィエの心には見えない一線があって、それを誰かが越えようとすると、たちどころにアラームが鳴り響く。そしてその先を遮断する。
唯一の例外がロザリアであるようで、オリヴィエは自らの内に彼女を引き込みこそしなかったが、代わりに自らその線を越えて彼女の内へするりと入り込む。
悲しみも苦しみも寂しさも、ロザリアは口にする必要などなかった。
その前に、気づいてもらえたから。
泣きたい時、顔を上げればオリヴィエの優しいブルーの瞳があった。
寂しい時、つらい時、暖かい腕がいつも彼女を抱き寄せる。
「あんたはそのままで良いんだよ。
ただそこにいてくれるだけ。
それだけで十分さ。
変わらないでおくれ。
ね?」
長い指でロザリアの髪を梳きながら、なだめるように囁いた声。
心地よい恋人のその腕が、ロザリアは好きだった。
だから気になった。
オリヴィエにも、自分はそんな心地よい場所であるのかと。
「ばかだね。
聞かなきゃ、わからない?」
愛しげに目を細めて、オリヴィエは答えてくれた。
「いつも言ってるだろ?
ただ傍にいてくれるだけで良い。
それだけで、私には十分なんだってさ。
信じられない?」
それでもロザリアには気になった。
彼女がいればそれで幸せなのだと言いながら、相変わらずオリヴィエは、時折あの凍るように冷たい顔をする。
どうすれば良い。
優しい場所をくれる恋人に、何をしてあげれば良いのだろう。
いつも気にかかっていたけれど、オリヴィエの心の一線にあえて触れることはしないできた。
それは無理に飛び越えてはいけない。
いつか彼がきっと手を引いて、ロザリアを誘ってくれる。
その時まで待とう。
そう思って。
ズン…と大きな振動が、機体を揺らす。
ややして着陸のアナウンスが、流れ始めた。
シートベルトを外す金属音が、あちらこちらでまばらに起こる。
「行くよ。」
オリヴィエが立ち上がった。
表情のない冷たい顔のまま。
目を閉じて、ロザリアは一つ息をした。
そして立ち上がる。
「ええ、オリヴィエ。」
微笑した。
恋人の冷たい瞳に向かって、優しく。