Eine Rückkehr ~帰郷~ (15)
翌日、オリヴィエがホテルを出たのは、もうそろそろ陽も傾こうかという頃だった。
昨晩、威勢の良いことを言ってはみたものの、いざとなるとやはり怖い。
自分の目で確かめることが、オリヴィエには恐ろしかった。
あれから三年。
オリヴィエが何も言わず聖地を去ってから、それだけの月日が流れている。
ロザリアは、さぞ彼を恨んでいることだろう。
許せない裏切りと、自分が彼女ならきっと思ったはずである。
あの時のオリヴィエの複雑な心境を、彼女にわかれと言っても難しい。
自分のしたことでありながら、オリヴィエ自身、あの時の行動に何かしら説得力のある理由をつけるのは難しかった。
ただ一つわかっているのは。
そうするしかなかった。
オリヴィエにはああする他、なかったのだということだ。
誇り高い女王補佐官、公にはその立場にあるロザリアが、己の職務を放り出し聖地を去るとは考えられなかった。
それでもきっと、あの優しいロザリアは悩むだろう。
誰が何を言っても、ありのままのオリヴィエが好きだと言い切ってくれた彼女なら、ただのロザリアとしての感情と補佐官としてなすべきこととの狭間で、悩みぬくに違いない。
サクリアの尽きた守護聖が、聖地に残ることはありえない。
オリヴィエの去就も、また例外ではなかった。
そうであれば、彼女の知らぬ間に去ってやろうと決めた。
隙間だらけのオリヴィエの心を埋めてくれた、彼女への礼に。
そこまで思い返して、オリヴィエはくすりと笑った。
「嘘つくんじゃないよ。」
足を止める。
弱くなった陽に、サングラス越しの視線を向けた。
悩むのは、ロザリアではない。
悩むのは。
悩んだのは、オリヴィエだった。
サクリアが尽きたことを知らせたら、どうするだろう。
あれほど懸命に務めている職を放り出し、たくさんの恵まれた未来を捨てて、それでもオリヴィエを選んでくれるだろうか。
サクリアの衰えを自覚した時から、夜毎オリヴィエはそれを考えた。
口にしようと何度も思い、ためらい、そして逃げた。
ロザリアの答えから、オリヴィエは逃げた。
遠い昔、聖地へ入ったのは、オリヴィエの意思ではなかった。
そして去る時も、また同じ。
仕方のないこと、逆らえないことが、この世にはある。
これもその一つ。
抗ってもどうしようもないことならば、思い出にするしかないではないか。
弱い臆病な自分の心をごまかすために、たくさんのもっともらしい言い訳を、オリヴィエは自分に言い聞かせた。
そして去った。
彼女にさよならも言わず。
そして三年が過ぎた。
思い出に変わるはずであった月日は、オリヴィエの愚かさを笑うように、夜毎鮮やかに蘇る。
蒼い宝石のような瞳。
切れ長で、けぶるように長い睫毛の。
透き通る優しい声で彼を呼ぶ。
「オリヴィエ、わたくしはあなたが好きだわ。」
逃げたのは、オリヴィエである。
今更、忘れられないなどと、なんと未練であることか。
それでも、求めてしまう。
気づけば思い出の映像に、ほっと息をつき、微笑みかけていた。
ロザリアから逃げておきながら、オリヴィエは彼女を求めている。
手ひどい裏切りをしておきながら、ロザリアがすべてを捨てて、オリヴィエを追ってきてくれれば良いと。
「ムシの良いことさ。」
傾きかけた陽がやけに赤く、オリヴィエの目を刺した。
この惑星の入日は早い。
あっという間に、日は沈む。
ほう…と息を一つして、オリヴィエはもう一度、小道を歩き始めた。
とにかく、確かめようと思う。
ホテルの主人の言うとおり、これは自分の目で確かめるべきこと。
それが夢を破り、泣くほどつらい現実をみせることになろうとも、すべては彼の選んだこと、その結果なのだから。
後ほんの少し歩けば、右手に家が見えてくるはずである。
闇の中、茨の小道を進むような恐ろしさを抱え、オリヴィエは歩いた。
「大丈夫。
現実はきっと、あなたの見る夢より美しいですよ。」
昨夜の主人の慰めに、今はすがるような思いで。
「あ…った。」
スレード葺きの古い家。
小さな小川の向こう、緑の木枠の窓までも、オリヴィエの記憶のままの姿で。
こみ上げる熱い塊が、オリヴィエの胸の動悸を速くする。
気づけば小走りに駆け寄っていた。
小さな家を囲む、白いペンキの柵も、あの頃のまま。
裏庭へ続く柵扉を押し開ける。
そこで、オリヴィエの息は止った。
とりこんだばかりらしいシーツの籠は、その人の顔を隠していたけれど。
それでもわかった。
間違えるはずなどない。
「どなた?」
シーツの籠の向こうで、懐かしい声が尋ねる。
オリヴィエは声を失った。
その人がここにいる。
それが現実のことだと、すぐには信じられなくて。
「どうかなさって…?」
シーツの山の向こうから、白い顔がのぞく。
「オリ…ヴィエ…。」
蒼い宝石のような二つの瞳。
大きく見開かれ、そして瞬時に表情を変えた。
きりりと吊り上る。
ばさりと、洗濯籠を投げつけた。
「試しましたのね?
オリヴィエ、あなたはわたくしを!」
見る間に、白い滑らかな頬に涙が伝う。
「わたくしがどうなるかなんて、考えてもくださらない。
あなたなんて、大嫌いですわ!」
恨み言を連ねる唇さえ、今のオリヴィエには愛おしかった。
彼女の涙が、ひたひたと彼の心に染みてくる。
恐れにひび割れ縮こまった心が、ようやく伸びやかに息をつく。
「ごめん。」
オリヴィエは、ロザリアの頬に手を伸ばす。
首を振って払いのけようとするロザリアを、ぐいと抱き寄せた。
「ごめん、ロザリア。
許しておくれ。
嫌いだなんて、言わないで。」
掠れた声。
彼女の長い髪に顔を埋めて。
オリヴィエのよく知る、懐かしい香りを吸い込みながら、目を閉じた。
今彼の腕には、ロザリアがいる。
身勝手な彼を恨みながら、それでも追ってきてくれた恋人。
一度だけ見せた故郷の地。
なんの約束もしないで消えたオリヴィエを、ここで、たった一人で。
「あんたに会いたかった。
ずっと、会いたかったよ。」
身体の奥底から搾り出すような、それはオリヴィエの真実だった。
オリヴィエの心にかけた封印が、今解ける。
「ばかだよ、私は。
これまでも、これからも、私にはあんたしか要らない。
知ってたはずなのに、あんたから離れるなんてね。
救いようのないばか。」
泣き濡れた蒼い瞳が、ようやくオリヴィエを見上げてくれた。
焦がれ続けたその色に、オリヴィエの心臓は締め上げられる。
「ロザリア…。」
言いかけたその先を、ロザリアの白い指がそっと遮った。
「あなたに言わなくてはならないことが、ありますの。」
補佐官であった頃によく聞いた、大真面目な口調で。
わずかの沈黙があって、その後。
「待っていましたわ、オリヴィエ。
一番に、これをあなたに言いたくて…。
お帰りなさい。
お帰りなさい、オリヴィエ!」
バラの花びらのような微笑。
何度も夢に見た、懐かしいロザリアの。
胸の昂ぶりを、オリヴィエは今度こそ抑えられなかった。
「あんたを愛しているよ。
ロザリア。
私の…、愛しいロザリア。」
思いのたけをこめた唇を、オリヴィエは降らせた。
幾度も幾度も、繰り返し。
時を忘れて。
浅い春。
長い長い冬が、ようやく終わる。
ばりん…。
温んだ水に、小川の氷が割れる音。
耳を澄まして、オリヴィエは聞いた。
穏やかに。
満ち足りて。