Valse~Au revoir~ (3)

端の黄ばんだ厚ぼったい紙には、もう遠い昔に滅びた文明の、残した文字が連なっている。
壁画の描き方について扱ったものだが、ところどころにインクがにじんで、文字の判読が難しい。
前後の言葉から、虫食いになったその個所を推測しながら読み進めて行く。
それなりに集中力の必要な作業である。
にじんだ文字がまた1つ。
もう一度、前の言葉に戻ろうとして、セイランは眉を顰める。
つい先ほどまで、はっきりと見えていたその文字が、今は薄闇にぼんやりとかすむ。
なんだってこんなに薄暗いんだと、セイランは顔を上げた。
天井まで届く高い窓の外には、夕闇が少しづつ広がり始めていた。

「ああ、もうそんな時間か。」

学芸館の一日は、朝9時に始まり夕方5時に終わる。
その間は、女王候補の求めるままに、学習の手助けをしなければならない。
「感性」という科目。
美術、音楽、文学、歴史、一般教養すべてと言っても過言ではない範囲が、セイランの担当である。
もともと好きなように描き、詠ってきたセイランである。
誰かに教えるなどとは、とんと縁のないこれまでであった。
だが他人に教えるとなれば、それなりの準備も必要である。
だからこうして時には、彼自身の知識を確認する時間も必要であった。
窓の外をもう一度眺めて、セイランは静かに本を閉じた。
このくらいにしておこうと思う。
さして彼の興味をひかない本である。
本来ならば頼まれても読みたくはない種類の。
だが女王候補の育成のためには、必要な情報の1つである。
だから我慢して読み進めたが、興がのらないことには変わりはなく、いつになく疲労がたまって、セイランは小さなため息をつく。

「まったく、僕がこんなに我慢強いとはね。」

このまま私室に戻っても、くつろげるとは思えなかった。
嫌な疲労が、神経を昂らせている。
呼び鈴を鳴らして、館の執事を呼んだ。

「出かけてくるよ。」

女王府から派遣された青年は、ちらとも表情を変えずに頭を下げた。  

「お食事は?」

聖地とは案外不便なところで、気ままに外食を楽しめる場所はそう多くない。
食べ損ねたところでそれほどこたえるわけではなかったが、既に夕食の支度を始めているらしい。
煮込み料理の良い匂いがする。
無下に断るのは、さすがのセイランでも気がひけた。

「後でいただくよ。
後のことは、好きにするよ。」

変にかまいつけられるのを、主人は好まない。
そのことをよく知る執事は、もう一度軽く頭を下げた。

「承知いたしました。」

執事が出てゆくのを見送って、セイランはすいと立ち上がる。

「薄暮の聖地か…。
悪くないね。」

ようやく義務から心を解き放つと、少しだけ気力が戻ったような気がした。

 

 

しっとりとした闇が、薄闇にとってかわるのにさして時間は要らなかった。
透き通った大気の上に、くっきりと明るく丸い月が浮かんでいる。
整然と整備された聖地の小道を、銀色の輝きがやんわりと照らして、思いのほか明るく快適な散歩となった。
小道の向こう、こんもりとした木立の向こうに、白く輝く聖殿が見える。
ふ…と、好奇心がうずいた。
女王補佐官のお茶会で見た光景。
優し気な水の守護聖が、一瞬凍りつくような冷たさで、きっぱりと言い切ったあの言葉。

「それでも良いと、わたくしは思っていますよ。
あの方に毛布が必要なら、喜んでそうなりましょう。
それを嫌って身を処した方への遠慮など、わたくしにはありませんよ。」

今夜も、彼はハープを奏でるのだろうか。
どこか焦りと不安の入り混じった、あの音色で。
いつのまにか、歩調が速くなっていた。
神のようにあがめられる守護聖の身で、人間臭い愛着をみせるその様が、セイランにはとても好ましく見えた。
悟りすまして与えられた運命を受け入れるより、その方がよほど好ましい。
女王ロザリアも、その情にほだされたものだろう。
過去、彼女に何があったのだとしても、過去は時間の流れに埋もれて行くものだと、セイランは思う。
今、現在をどう生きるかが、重要なことだと。
やわらかい春の雨のようなアルペジオが、辺りに走る。
25弦の小ぶりのハープのあの音は、リュミエールのそれに違いない。
月あかりに白い聖殿を、やんわりと優しく包んで、そして大気に溶ける。
セイランの足は、さらに速くなる。
もう少し近くで、その音に浸りたかったから。

 

 

聖殿の中庭には、大理石で作られた白い大きな噴水がある。
昼間には、執務の息抜きに来た守護聖を見かけることもある場所だが、今は夜である。
ただ水が噴き出し落ちる音だけが、無人の庭に響く。
それを背景に、リュミエールの演奏が、小夜曲に変わる。
かわいらしく甘いセレナーデ。

「今夜はご機嫌が良いみたいだね。」

奏者の幸せを感じて、思わず微笑んだセイランの視界に、ちらりと白い影が映った。
白い、金色の人影。
銀色の月あかりの回廊にあるのは、光の守護聖ジュリアスである。
豪奢な金色の髪。
丈の長い白のトーガをまとって、彫像のように完璧な均整の立ち姿。
すっきりと高い鼻梁の横顔をこちらに向けて、空を見上げたたずんでいる。
ほう…と、ため息がその形の良い唇から漏れた。
ジュリアスの視線の先、その先にあるのは女王の寝殿。
葉を茂らせた木々の向こうに、半円に突き出したバルコニーがわずかに見える。

「今夜はまた、珍しいものを見ることだね。」

教官として召喚されてその初日、そこで見たジュリアスは、まさに神のような存在、守護聖の首座であった。
神々しく輝く美貌、それに似合いの謹厳で、すきのない立ち居振る舞い。
かつて彼もまたただの人間であったなどとは、およそ信じられぬ、そんな存在であった。
ところが今夜、今、セイランの目の前にいるジュリアスはまるで違う。
白皙の横顔には、静かな苦しみがあった。
絵のように美しい姿の内に、断ち切れぬ未練がとぐろを巻いている。
描きたいと、思った。
今の彼のこの表情をこそ、美しいとセイランは思う。

「誰かいるのか?」

気配に気づいたか、ジュリアスが庭の中央へ視線を動かした。
セイランの姿を見つけると、一瞬目を見開いて、肩で1つ息をする。

「セイランか。
こんな時間に何をしている。」

別に隠れる気もなかったから、肩をすくめて軽く頭を下げた。

「こんばんは、ジュリアス様。
ただの散歩ですよ。
聖地の夜なんて、滅多にみられるものじゃありませんからね。」

悪びれた風もなく言ってのけると、ジュリアスの青い瞳が和む。

「そうか。
それで、聖地の夜は気に入ったのか?」

セイランは目を見開いた。
てっきり何かしらの叱責を受けると思っていた。
執務時間外に、許しもなく聖殿に立ち入ったのだ。

「どうした?」

トーガの裾を優雅にさばいて、ジュリアスが近づいてくる。

「ちょっと意外だったんですよ。
てっきりお小言をいただくと思いましたから。」

セイランの正直すぎる答えに、ジュリアスは頬を緩めた。

「そなたが、そう節度を超えるとは思えぬからな。
超えぬ限りは、騒ぐほどのこともなかろう。」

夜気に混じって、ふわりと樹々の深い香りがセイランの鼻孔をくすぐった。
ジュリアスが動くたび、樹々のその香は色を濃くする。
しっとりと優しく落ち着いた香。
それは彼のまとう煌びやかさとは対極にあった。

「今のあなたを見れば、信じられますよ。」

めずらしく素直に、セイランは思うままを口にした。

「惹かれたでしょうね。
陛下も、きっと。」

途端、ジュリアスの青い瞳に、怒気が映る。

「軽々しく、その御名を口にしてはならぬ。」

たいていの者であれば怯んだであろう雷光のような怒気にも、セイランは平然と首を振った。

「女王や守護聖である前に、ただの人だと思いますけどね。
好きになったって、良いじゃないですか。
それに逆らって守る大義か。
ご立派だとは思いますけどね。」

無礼極まりないセイランの言葉に、ジュリアスは無言で背を向けた。

「おそらく、そなたは正しいのだろうな。
だがこの身に、宇宙すべての命運をゆだねられた日から、私にはこうとしか生きられぬ。
もしそれを破れば…。
私は私が許せないであろうからな。」

白いトーガの背中が、少し光彩を弱めている。
出過ぎた言動を、セイランはせずにはいられなかった。
つい先刻のあの横顔、その表情が、セイランに余計なお節介をさせる。

「まだ間に合いますよ。」

空を見上げて、小さく声にする。
銀色の大きな月が、中天に上っていた。