第2章

「陛下、お茶が入りましたわ。」

女王補佐官ロザリアの声が、書類の山に埋もれた女王の意識をこちらに戻した。

「もう、嫌になる。
大きな声では言えないけど、叫んじゃいたい。」

連日の徹夜でそそけ立ち、つやを失った細い金の髪。
充血した緑の瞳の女王は、がたんと椅子をけって立ち上がる。

「どうしてこう、いろいろいろいろ続くのよ!
この宇宙のおもりをするだけで、わたしは精一杯!!
よそのことまで、知るもんですか。」

補佐官ロザリアは、別段驚いた風もなく、優雅な手つきでテーブルにカップを置いた。

「さぁ、陛下。
桃とリンゴのパイも、用意いたしましてよ。」

わずかの沈黙の後、女王アンジェリークは書類の山の向こうからよろよろと現れて、いつもの椅子におとなしく座る。
大ぶりにカットされたパイには、アイスクリームがこんもりと山盛りに添えられていた。
銀のスプーンを握りしめると、彼女はまずアイスクリームの山から攻略にかかるようだ。

「まぁ、仕方のないことですわ。
これも給料のうち…というところですわね。」

透きとおった薄い琥珀の色とマスカットに似た香気を楽しみながら、ロザリアは最近覚えた言葉を使った。
意に沿わぬ仕事を片付ける時、彼女が唱える魔法の言葉。
女王や補佐官、守護聖には、女王府から年金が支給されている。
期間は、着任してからその生を終えるまで。
いわば終身型の年金である。
給料と呼んで、大過はないはずだ。

「観念して、せっせと励むことですわね。」

口調にややとげがあるのは、ロザリアにとって女王のこの愚痴が、ここ最近ずっと続く面倒ごとであったからで、さらに言えば、女王のイライラの原因は他にあることを知っていたからでもあった。
近くにいるロザリアには、もうみえみえの事実を、親友でもあるこの金の髪の女王は、けして認めない。

「気になるのなら、確かめてみてはいかがですの。」

女王の手が、銀のスプーンを持ったまま宙に浮いて止まる。
大きな緑の瞳が、ロザリアをじっとみつめて、みつめて、伏せられた。

 

 

ここ最近続く、新しい宇宙の異変に、ここ神鳥の宇宙も知らぬ顔はできず、なにかと協力や援助の手を差しのべている。
人的援助も、またしかり。
女王や補佐官は、軽々に聖地を離れることはできないが、守護聖は別である。
首座の守護聖ジュリアスなどは、女王の名代として、頻繁に行き来していた。
頻繁に。
まさにそこが、問題であった。
あちらには、魅力的な女王と補佐官がいる。
最近ではさらに、聖天使だという愛らしい少女までもが、加わった。
公式の場では、女王然として、

「わたしの力の及ぶ限り、協力するわ。
ふたつの宇宙の平和のために。」

とかなんとか、口にしているけれど、内幕はこのとおり。
気になって仕方ない。
毎日ロザリアを相手に、愚痴三昧である。
まったくもって、じれったいことだった。
ロザリアの見るところ、女王の想う相手、謹厳な光の守護聖ジュリアスも、アンジェリークを憎からず思っているのは明らかであった。
ジュリアスもジュリアスだと、ロザリアは思う。
重責を担うことと、少しばかりわがままに生きることは両立すると、なぜわからないのか。
あまりに長く首座にあったためか、生来の性格か。
どちらにせよ、まるで融通がきかない。

「どうしていいのかさ、わからないんだよ。
きっとジュリアス自身もね。
困り果てている。
そんなところだと、私は思うよ。」

昨夜の、恋人の言葉を思い出す。
ロザリアを腕に抱いて、笑いながら。
頬に上る熱を自覚して、ロザリアは冷たい水を口にした。

とにかく、だ。
親友でもある女王の想いを、なんとしても成就させてやりたいとロザリアは思う。
それがいつか必ず訪れる、別れを覚悟しての恋だとしても、初めから何もないよりずっと良い。
ぐずぐずしていては、あっという間に時間は過ぎる。
聖地の時間は緩やかに流れるが、それでも止まっているわけではない。
二人で生きられる大切な時間を、どうしてこうも無駄にできるのだろう。

「なにか、きっかけが必要ですわね。」

声に出していたらしい。

「ロザリア?」

首をかしげてロザリアを見つめる緑の瞳。
徹夜明けの疲れた表情が、すこし切なくていとおしい。

「パーティを開きましょう。
皆、ここのところ疲れ気味ですから、ちょうど良い息抜きになりますわ。
ね、そういたしましょう。」

良いことを思いついたと、ロザリアは微笑する。
日常とは離れた時間と空間を作れば、少しは違ってくるのではないか。
事変続きの物入りで、女王府の財務担当は渋い顔をするだろうが、そこはそれ。
なんとでもしてみせる。
ジュリアスの貴族趣味を理解するに、ロザリアにかなうものがあるだろうか。
名門貴族の生活は、傍目にみるより意外に質素で禁欲的なものである。
だがパーティとなれば、話は別。
家名にかけて、贅を尽くした華やかな宴が開かれる。
よろしい、望むところだ。
華やかに、劇的に、浪漫のエッセンスをたっぷり入れて、最高の舞台を作ってみせようではないか。
有能な女王補佐官の青い瞳が、久々に楽し気に輝いた。

 

 

そして迎えた8月のある晩のこと。
聖殿大広間は、まるで真昼のように明るくにぎやかだった。
旧式のシャンデリアには、惜しむことなく最上の蝋燭が使われて、重そうな飾り水晶をきらきらと輝かせている。
楽師は首都から呼び寄せた。
奏でる曲目には、すべて舞踊曲をと指定してある。
ゆるやかに流れるワルツの調べは、さすがに一流の演奏で、自身の演出力を自画自賛しているロザリアの目に、許しがたいものが飛び込んだ。
壁際に並ぶ、飲み物と料理をのせたテーブル。
ロザリアは細い眉をかすかに寄せた。
まるで食べ盛りの子供のパーティでもあるようだ。
量も数も多すぎる。
いくつかテーブルを片付けるように、給仕長に言わなければ。

女王主催のパーティである。
本来であれば、招待客の顔ぶれや人数にも気を遣う必要があった。
できるだけ幅広く、功績のあった者、慰労が必要である者、漏らすことなく広く広く。
聖殿の侍従長は、当然のように進言してきたものだ。

「あちらの陛下や補佐官、それにエトワールもお招きいたしませんと。」

冗談ではない。
そんなことをすれば、なんのためのパーティであるか、わからなくなってしまう。

「今回の目的は、お疲れの陛下をお慰めすることと、守護聖たちの慰労。
この2つです。
招待客はごくごく内輪だけにとどめ、楽しんでいただきましょう。」

きっぱりと言い切る補佐官に、侍従長は黙って頭を下げた。

「あれだけ内輪にと申しつけましたのに…。」

広間を行き交う顔ぶれを確認して、ロザリアは眉を曇らせる。
王立研究院の主任以上の研究員、王立派遣軍からは将官以上の軍人が、招待客リストに入れられたようだ。
見渡したところ、男女の割合は7対3というところか。
夫人や婚約者を伴ってきた甲斐性のある男は、少ないように見える。
今夜の名目は、ダンスパーティである。
このアンバランスは、けして好ましくはない。
美しい女性を10人ほど、追加で招く必要があるだろう。
侍従長を探してほんの数歩、足を踏み出した。
ふ…と、彼女の周りの空気が色を変える。
ふわりと品の良い、これはフゼアグリーンの香り。

「盛会だな…。
さすがに、そなたの手配りは行き届いている。」

艶のある、柔らかなテノール。
心もち、いつもより明るいその声の表情に、ロザリアは唇に微笑をためて、ゆっくりと振り返った。

「ごきげんよう、ジュリアス。
良い夜ですこと。」

 

 

 

 

光の守護聖ジュリアスは、礼装用の白いトーガに身を包んでいた。
肩口にとめた碧玉のブローチが、その下に広がるたっぷりと重いシルクのひだをまとめている。
豪奢な黄金色の髪が豊かに背を覆い、ゆったりと重ねたトーガの布地越しにもわかる均整のとれた長身。
ロザリアは、心中でため息をもらした。
美しい貴族の青年などいくらでも見てきたはずの彼女でさえ、これほど完璧な青年に出会ったことはない。
まして彼女の親友、庶民の出であるアンジェリークには、どれほどまぶしいことだろう。

「踊らぬのか。」

ああ、だがしかし、これだから!
この唐変木は、本当に度し難い。
恋人の見立てた青い夜会服は、彼のひいき目を差し引いても、ロザリアを十分に美しく見せているはずである。
社交界のマナーであれば、まずは彼女の美しさをほめるところから始まるものだ。
そしてその次、これがもっといけない。

「踊らぬのか。」

家庭教師は、何を教えていたのだろう。
一緒に踊る気がないのなら、口実をもうけてさっさと立ち去るべきで、「踊らぬのか」はない。
きりきりと吊り上がりそうになる眉を、ロザリアは意識して抑えた。
神々しいほどの美貌と誇り高い精神の後ろには、ただの世慣れぬ青年がいる。
だがそれをも愛しいと、アンジェリークはどうやら思っているらしい。
ロザリアが今すべきは、ジュリアスの唐変木ぶりをあげつらうことではない。
世慣れぬ青年に、目の前に機会があるのだと、そう知らせてやることだった。

「陛下が、お待ちですわよ。
今夜のために、ずいぶん練習なさいましたから。
あなたに仕上げのレッスンをしていただきたいと、そう仰せでしたわ。」

途端、ジュリアスの白皙の頬に赤みがさした。
碧い切れ長の瞳が微かにうろたえるのを、ロザリアは見逃さなかった。

「ドレスも、新調なさいましたわ。
女王の礼装は、どうしてもいやだとおっしゃって。」

素知らぬ風に続けた言葉に、ジュリアスの形の良い唇がほころんだ。

「陛下らしいことだ。」

鏡があれば、目の前に突き出してやりたいと思う。
自分がどんな顔をしているのか、見てみると良い。
無駄な抵抗は、もうそろそろ終わりにしてはもらえないものか。
なにより、この何事にも完璧なロザリアが立てた計画なのだ。
失敗など、許されるものではない。

「さあ、お急ぎになって…。」

広間の向こう側、窓の傍に立つ、金の髪の少女を視線で指し示す。
白い夜会服の初々しい女王は、まるで社交界デビューの夜のように、不安げに見えた。
重いシルクの衣擦れの音。
トーガの裾を優雅にさばいて、女王のもとへジュリアスは向かう。
その背を見送って、ロザリアはようやく心から微笑した。

 

 

 

「陛下…、こちらにおいででしたか。」

なんとも間の抜けたことを口にしたものだ。
自分でもそう思うが、それ以外にどうすればよいか、まるで見当もつかない。
わかっているのは、今、彼の目の前にいる少女を、彼は心から愛しいと思う、ただそれだけのこと。

「これね、ロザリアに選んでもらったの。
わたしは、ほら普通の家の子だから、ロザリアみたいにデビューとか、そんなのしていないから。
そしたらロザリアが、じゃあ今日デビューすればいいじゃないって。」

白いふんわりとした夜会服は、ダンス初心者のアンジェリークのために、できるだけ動きやすく作られたもの。
レースやリボンは要らないというロザリアに泣きついて、ドレスの裾にいくつかリボンをつけてもらったのだと、少女は裏話を聞かせてくれる。

「少し…、地味よね、レースもないし。
あんまりかわいくない。」

不満げに唇をつんと尖らせた少女に、耐え切れず声をあげて笑った。

「十分に、おかわいらしい。
そう私には見えますが…。」

女王の御前である。
このように声をあげて笑うなど、無礼にもほどがある。
常のジュリアスであれば、けして破ることのない鉄の戒律を、この少女の前でだけは、むしろ守ることの方が難しい。
くるくる動く少女の表情のすべてが、彼を惹きつけてやまない。
泣いたり、笑ったり、怒ったり。
まるで抑えることなく、自然に彼女はさらけ出す。
少女が笑えば、いつかつられてジュリアスも笑っていた。
心地よい開放を、彼女は与えてくれる。

「踊っていただけますか。」

だから素直に口にする。
その後の、彼女の反応が見たくて。

「え…。
あの…ね、ジュリアス。
わたし、まだ、そんなにうまくないのよ。」

途端もじもじと、上目遣いの緑の瞳。
おそらく、それは本当のことだろう。
飛んだり跳ねたりは、大の得意の彼女であるが、ダンスとなるとどうも勝手が違うようで、練習相手をつとめたというある守護聖からも、その危ういステップは聞き及んでいる。

「ずいぶん練習なさったのだと、補佐官から伺いましたが。」

左手を差し出して、促した。
広間の中央にゆけば目立つことだろうがと、そこまで考えた時、彼女の後ろで大きく開いた窓の外、半円形に突き出したバルコニーに気がついた。

「陛下…、あちらならよろしいでしょう。
だれも、見てはおりません。」

ようやく頷いてくれた少女に腕を貸して、ひんやりと心地よい夜気の中に並んで立った。
降るような星とは、よく言ったもの。
所狭しとちりばめられた星々が、清らかな輝きで二人を照らした。

「わたしね、星のあかりって、好きよ。
小さくて、頼りないあかりだけど、たくさん集まると、ほらこんなにきれい。」

踊ることなど、もうすっかり忘れたように、天空をみつめる少女のふっくらとした白い横顔。
ジュリアスの心臓が、どくんと大きな音をたてる。

「ダンス、ロザリアに習ったの。
すごく厳しいのよ。
候補時代のジュリアスと同じくらい、ううん、それ以上かも。」

くるりと顔をむけたかと思うと、細い指で目じりを引き上げ、つり目を作る。
不自然にひきつれた緑の瞳が、いたずら気に笑っていた。

「こーんな顔してね、
『できるまで、今夜は終わりませんわ。』
なんて言うのよ。
それも、毎日。」

容易に想像のつく光景に、ジュリアスは思わず微笑んだ。

「それはそれは…。」

「あら、笑いごとじゃないわ。
ふくらはぎはひきつるし、腰は痛めるし。
それでもロザリアは許してくれないし…。」

ぶつぶつと不平を鳴らして、ほんのわずかの沈黙。

「でもね、踊りたかったから。
ジュリアスと踊りたかったから、頑張れたの。」

思い切ったように、力の入った口調で、彼女は言った。
まっすぐにジュリアスを見上げる緑の瞳。

「ずっとずっと前からよ。
ジュリアス、あなたが好きだった。」

一息に言い切って、少女は大きく肩で息をした。
けれどまっすぐに見つめる緑の瞳は、彼を捉えて離さない。
己の心臓の鼓動が、こうまではっきりと聞こえた瞬間を、ジュリアスは知らない。

「陛下…。」

声が、かすれた。
からからに乾いた喉が、焼けつくように熱い。
告げた言葉の重みを、彼女が知らぬはずはない。
彼女が女王候補であった頃、その言葉を未然に封じたのは、ジュリアス自身であったから。
女王のなんたるかを諄々と説いて聞かせ、その使命こそが何よりも尊いものであると。
けれどくりかえしたあの言葉は、その実、ジュリアス自身に言い聞かせたものであった。
守護聖が女王を恋うるなど、あってはならぬ。
抑えつけ、押し殺してきたその言葉を、今や女王になった少女は口にした。

「言わないでいたら、きっと後悔する。
だって、ほんとに…、ほんとに好きなんだから。」

重ねて告げられる思いに、ジュリアスの鉄の戒律はがらがらと音をたてて崩れ行く。
逆らえぬ。
そう認めたら、笑顔になった。

「陛下は、勇気がおありになる。」

ジュリアスの碧い瞳に、躊躇いの色はない。

「ならば私も…、告げねばなるまい。」

震える細い肩を抱き寄せて、小さな頭を抱いた。
細い金の髪に唇をあてて、告げる。

「そなたを愛している。」

優しく甘く響くテノールの声。
ひんやりと冷たい夜気にとけてゆく。
白絹のトーガを握りしめた少女が、ようやく顔を上げる。
大きな緑の瞳いっぱいに涙が浮かび、零れ落ちてぼろぼろと白いほほを伝った。
途端、ジュリアスの思考は停止した。
この状況をどう処理すべきか、まるでわからない。
昔も今も、彼女の涙にはとにかく弱い。

「泣くな。
泣いてくれるな。」

おろおろと繰り返すジュリアスの胸にしがみついて、今だけはただのアンジェリークに戻った少女は、さらに盛大に泣き続ける。
いつまでも…。

 

 

 

「良かったわね。
おめでとう、アンジェリーク。」

晴れやかな笑顔で、ロザリアはシャンパングラスを高く掲げた。

「ほら、言ったとおりになりましたでしょう?
わたくしの計画は完璧ですわ。」

得意げな様子のロザリアの鼻を、恋人の指が、つんと弾く。

「まあ、そうだね。
落ち着くところに、ようやくってとこかな。」

あまり共感している風もない、気のない返事。
黒の礼装できめた彼の姿に、思わず見とれてその後。
ようやく思い至る。
彼と踊っていない…。
窓の外が気になって、それどころではなかったのだが、これはいかにもまずかった。
独占欲のとりわけ強い恋人には、ロザリアが彼以外に気をとられていることなど、面白いはずはない。
パーティの準備を始めてからというもの、ロザリアの注意は常にそちらに向いていた。
その間、黙って見ていてくれただけでも、感謝しなくてはならないというのに。
ちらりと、上目遣いに恋人の表情をうかがうと、予想どおり。
暗く沈んだブルウの瞳が、不機嫌をしっかり訴えている。
しばらくは、いろいろと覚悟が必要だろう。

 

 

その後。
首座の守護聖は、女王補佐官の依頼を少しばかり優先して処理するようになったという。

「わたしは常に公平だ。」

当の本人は、頑として認めなかったが、どうやら本当のことであるらしい。

「まぁ、当然と言えば当然ですわね。」

真っ赤になってうつむく女王の前で、補佐官は極上の微笑を浮かべているのだとか。