Chamade(3)

「オリヴィエ様、ごきげんよう。」

飛空都市の仮の聖殿、夢の守護聖の執務室に、凛とした声が響く。
最近続けて聞くこの声が、オリヴィエの気分に色をつける。

「相変わらず熱心だね、ロザリア。
今日もサクリアの依頼かい?」

女王候補の一人であるこの少女は、じきに勝ちが確定する試験の、最後の仕上げをするためにここを訪れる。
試験開始後、今日でちょうど150日である。
彼女の育てる大陸は、フェリシア。
至福のその名にふさわしい、豊かで美しい大陸に育っていた。
フェリシアの民には、夢をみる力があった。
今日よりは明日、明日よりはその後、未来は今より幸せになるのだと信じる力がある。
それはオリヴィエが贈り続けた夢のサクリアの影響で、ロザリアはことのほかそれを喜んでいた。
最後の仕上げは、文化、芸術の発展を促すことである。
美しいと感じる心を、ロザリアは民に与えようとしている。
それにはオリヴィエの力が必要だった。
夢のサクリアを司る、守護聖としてのオリヴィエの力が。
ところが彼女は首を振る。

「依頼ではありませんわ。」

尖った。
つんと、音がしそうに口調が尖る。
この反応が、オリヴィエの気分を陽気にさせる。

「依頼じゃないって?
それは嬉しいね。」

執務机に頬杖をついて、オリヴィエは微笑する。
生真面目な彼女が、最近ではこうして数度に一度、ただお茶を飲むだけのためにここを訪れるようになっていた。

「お茶を淹れようか。
あんたにあげたの、まだあったはずだよ」

名門貴族の令嬢だというロザリアは、どこもかしこも完璧で隙がない。
かわいげがないと、そんな声も聞こえていた。
けれどオリヴィエには、そうして完璧の鎧をまとったロザリアの、その下にある素直で繊細な表情が見える。
ここを訪れる時いつも、ロザリアはそっとドアを叩く。
そして一呼吸おいて、声をかける。
静かな、涼やかな声で。

「お邪魔かもしれませんでしょう?」

控えめな訪問のわけを聞くと、ロザリアはそう答えた。
誰かと話しているかもしれない。
考え事をしているかもしれない。
いきなりそこへ侵し入るのは、どうにも無遠慮だと言う。

「おかしな子だね。
わたしたちは試験のために、ここにいるんだ。
言ってみれば、あんたたちの専属さ。
あんたの訪問以上に大切なことが、あるはずないだろう。」

笑って答えはしたものの、オリヴィエの心の琴線に、あの時何かが確かに触れた。
以来オリヴィエは、扉のむこうのその声を、楽しみに待つようになっていった。
訪問のほとんどは試験課題のためであったが、それでも数度に一度、今日のようにただお茶を飲むためだけに訪れることもあった。
夢のサクリアを、守護聖としてのオリヴィエを必要とするのではなく、ただのオリヴィエを必要としてくれているように思えて、なんとはなしに気分は華やいだ。

「良い香り…。」

オリヴィエの淹れた紅茶は、辺境の高山のふもとでのみとれる、希少な茶葉を使ったものだった。
甘い優しい香りが、辺りの空気を染めてゆく。
花びらのようにふっくりとした唇が、薄い磁器のカップのふちに押し当てられる。
その様が清らかで、オリヴィエは知らず見惚れてしまう。

「美味しい。」

青い瞳に嬉しそうな微笑が浮かんだ時、オリヴィエの心臓はどくんと大きな音をたてた。
自分の心の傾きを楽しむ余裕を、オリヴィエはなくした。
まずいと、アラームがなる。
知らぬ間に、心の傾斜が大きくなっていた。

「ロザリア、ほんとに女王になるつもり?」

だから聞いた。
守護聖の顔に戻って、距離を取り直すために。

「ええ、そのつもりですわ。」

少しの動揺もなく、ロザリアは微笑む。
それがやけにカンに触った。

「へぇ…。
そんなに良いもんじゃないと思うけどね。
即位したが最後、あんたは名前をなくすんだよ。
ただ陛下とだけ、呼ばれるようになる。」

事実だ。
だが試験途中の今、告げることではない。
わかってはいても、オリヴィエは続く言葉を止められない。

「宇宙の平穏を、民の幸せを、何もかもを、みんなが期待するようになる。
わたしをごらんよ。
どこへ行ってもそうさ。
『御身、お大切になさいませ。
御身の替わりは、ありませんから。』
まったくそのとおりさ。
夢の守護聖だからね、わたしは。」

ロザリアの青い瞳が大きく見開かれている。
言い過ぎたと、オリヴィエはふいと視線をそらした。
ああ、きっとがっかりしただろう。
そう思うと、自分に腹が立つ。

「オリヴィエ様は、オリヴィエ様でしょう。
一人きりですわ。」

涼やかに、よくとおる声が。

「替えなんて、いるはずもありませんでしょう?」

しごく当然のことを何をと、怪訝そうに。
その後に極上の微笑。
凛とした強い青の瞳が、やわらかく優しくオリヴィエを映した。
きっと彼女は女王になる。
この時オリヴィエは、そう確信した。
誰もかれも、この宇宙のすべての民が、愛し敬うに足る女王。
そして彼女もきっと、それらの民に等しく慈愛を注ぐ。
じりっと、オリヴィエの胸で蝋燭の芯が焼け焦げる。
等しく。
皆に、等しく。
それは嫌だと思った。
等しくなんて、してほしくはない。
彼女にとっての特別でありたい。
はっきりと姿をみせた本心に、オリヴィエ自身が一番驚いていた。
いつのまに、こんなに惹かれていたのだろうと。

「あんたが好きだよ。
ロザリア。」

告げれば、必ず波紋が広がるだろう思い。
けれど告げずにはいられなかった。
守護聖としての義務や縛りが彼を必死で押しとどめたが、喉元にこみあげる熱の塊を飲み込ませることはできない。
オリヴィエは求めた。
自分を愛してほしいと。
この清らかで優しい少女に。

「わたくしも…。」

言いかけて、彼女は口をつぐんだ。
うつむいて唇をかむ。
たまらずオリヴィエは、彼女の前に跪いて、その白い手をとった。

「わたくしも?」

その手をオリヴィエに預けたまま、ロザリアはオリヴィエの視線を避ける。

「わたくし、女王になりますの。」

ぽとんと落ちた大きな涙の粒が、ロザリアの蒼いドレスのスカートに、じわりと滲んだシミを作る。

「そうだね。
きっとそうなる。」

当然だと、オリヴィエは頷いた。
彼女以外の、他の誰になれるというのか。

「だから?」

平然と続けたオリヴィエに、ロザリアが顔を上げる。

「だから…って、オリヴィエ様。
わたくし女王になると、申し上げておりますのよ。」

きりりと吊り上がった眦に浮かぶ苛立ちさえ、なんと愛おしい。
微笑して、オリヴィエは彼女の頬に手を伸ばす。

「あんたが言ったんだよ?
わたしはわたしなんだろう?
なら、あんたも同じさ。
女王だろうがなんだろうが、あんたはあんただよ。」

目を見開いて、声もなく、ロザリアはオリヴィエを見つめていた。
長いまつ毛に、涙の跡が露のように残る。

「なればいいさ。
女王にね。
わたしにはどうでも良いことだよ。
わたしはね、あんたが好きなんだ。」

綺麗に巻かれた蒼い髪に、唇を落とす。

「それじゃだめかい?」

跪いた姿勢で見上げるこの視線で、これまでしくじったことはない。
沈んだ青の瞳にせつなげな色をのせて見上げれば、どんな女も思うままに落ちた。
けれど今度ばかりは、怖かった。
見上げる視線にのせたのは、本気の恋しさと切なさだったから。

「お慕いしておりますわ、オリヴィエ様。」

だからロザリアが小さな声で答えて、彼の手に白い手を重ねた時、オリヴィエの胸はきゅうと音をたててしめつけられる。
身体が震えた。
血の気をなくした指先が、ロザリアの腕をつかんで抱き寄せる。
気遣う余裕もまるでない。
まるで10代の少年のように、制御不能の熱に浮かされてロザリアの背を抱いた。
震えながら、唇を合わせる。
花びらのような唇は、吐く息さえ甘く、微かに紅茶の香りがした。

 

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